熊谷うちわ祭りについて


祭りの由来

 

うちわ祭は、当地に鎮座いたします八坂神社のご祭礼です。八坂神社は、文禄年間(1592~)京都八坂神社を勧請し、現在鎌倉町の地にある愛宕神社に合祀されたもので、京都八坂神社の末社にあたります。
 京都八坂神社の「祇園まつり」の起こりは、平安時代の貞観11年(869)に恐ろしい伝染病が流行し、日本60余州にちなんで、66本の鉾を立てて疫病退散の祈願を行ったのが始まりといわれています。

 

 

 


うちわ祭りの始まり

 

熊谷の夏祭りの記録が文書に出たのは、江戸時代の寛延3年(1750)で、もとは各寺社ごとに別々に行っていたとあり、同年4月に町民から宿場役人に願い出て許され、以来各町内いっせいに行うようになりました。この時代から、熊谷の夏祭りの形態が作られたといえましょう。
 各町から総代・祭事係、年番町から大総代が選ばれ、祭りの一切の責任を負いますが、これはもと寺社で行っていた名残を伝えているもので、その頃の祭事係は一躍、役人と同じ権力をもち、ご用番ともいい仲々の名誉役で、旧家でないと祭事係にはなれなかったそうです。祭りの日、参勤交代の大小名もしばしば通行止めに遭い、しかたなく熊谷堤を往来しなくてはならず、「八坂神社のお祭りには、大小名も一歩遠ざかって通った」と、当時の町民は得意げに語ったといわれています。 天保時代(1830~)が祭りの中興といわれ、この祭りの日、各戸で赤飯を炊いて疫病除けをしました。商店では祭の期間中、買物客に赤飯をふるまった事から、熊谷の「赤飯ふるまい」は祭の名物になりました。
 うちわ祭の起こりは、この手数のかかる赤飯のかわりに、料亭「泉州」の主人が江戸から買い入れた渋うちわを客にふるまったところ評判になり、のち各商店でも赤飯の代わりにうちわを出したため、誰いうとなく「買い物は熊谷のうちわ祭の日」と言われるようになりました。事実3銭の買い物にも5銭のうちわをふるまったことから、その評判は大変なものでした。こうした疫病退散祈願に始まったこの祭りも、いつしか五穀豊穣、商売繁盛をも祈願する祭りとなりました。
 第二次世界大戦中、一時中止になった終戦翌年の昭和21年から復活し、熊谷うちわ祭は、年々盛大になってきました。旧市街地の8ヶ町は、本石・石原・伊勢町・櫻町を合わせて12ヶ町となり、山車・屋台のあの勇壮な熊谷囃子は人々の心をおどらせます。

 

 


山車・屋台の登場

 

熊谷うちわ祭の原型とされる祭事は室町時代から続いてきたものですが、屋台が見られるようになったのは江戸時代中期のことです。しかし、この頃の屋台は神輿の渡御に付け祭としての狂言屋台でしたので、今の屋台の原初とは考えにくいものです。
熊谷うちわ祭が山車、屋台祭りへと移り変わる発端となったものは、明治24年、本町三四(現・第二本町区)の菓子店、中家堂の初代中村藤吉が、江戸神田にあった紺屋が個人所有する山車を買い受けたことからだと言われています。これより明治後期に本町一二(現・第一本町区)、筑波区、鎌倉区、仲町区も相次いで山車、屋台を製作し、祭りの士気が大いに高まっていったようです。

 

 

 

※うちわ祭り公式HPより抜粋しています